川口屋 城崎リバーサイドホテルの起源

城崎(きのさき)温泉は、約1300年もの歴史を誇る関西屈指の温泉街。但馬の母なる川、円山川下流域の雄大な流れと、三方を緑豊かな山に囲まれ、街の中心を流れる大谿川沿いの柳並木、木造3階建ての旅館が軒を連ねる温泉街の風情、浴衣姿でカラコロと駒下駄の音が響き渡ります。名物七湯めぐりは、 十世紀初め【古今和歌集】に「たじまのくにのゆへまかりける時に」と、平安時代の代表的な歌人で藤原兼輔(877~933)が詠んだ歌が千二百首の中に収められている。その昔、城崎温泉を流れる大谿川の下流域は沼地であり、弁天山は、湿地に浮かぶ小島のようであったとか。当館の先祖は、川口屋仁右衛門の屋号で、その昔から城崎(現在の薬師橋付近)に暮らしていたと伝えられています。

江戸時代

江戸時代の温泉番付表(当時は横綱は、なし)には、西方の関脇にランクされ、江戸中期の当代随一の名医であられた香川修庵が享保19年「但州城崎新湯を最大一とす」と「一本堂薬選」を著し、城崎を日本一と絶賛した。現代においても続く「だんじり祭り」も享保九年の温泉寺文書に記録が残る格式と伝統あるお祭りである。

明治・大正

近代になり、旅行や観光が大流行。その温泉ブームで城崎温泉も一大観光地として、湯治客をはじめとして人気をよんだ。旅行者の中には著名人も多く、皆様ご存知志賀直哉「城の崎にて」(大正6年発表)、また、島崎藤村、与謝野寛、与謝野晶子など、城崎ゆかりの作品を数多く残し、文人墨客にも愛されてきた温泉街である。昭和に入ってからも、司馬遼太郎などがこの地を訪れている。 先祖代々「まんだら湯」と並ぶ湯島の聖地「弁天山」の管理役を務めた糀屋(はなや:鮮魚店)とご縁が深い当宿の先祖は、大正五年【川口屋仁右衛門(かわぐちやにえもん)】が、現在の川口屋本館に宴会場と客室を入れて5部屋の宿屋として川口屋を創業致しました。その頃の宿泊代は、1~2円。後の大正十四年に起こった「北但大震災」により、温泉街は焼野原の壊滅状態となり、「川口屋料理旅館」も全壊しましたが、当時の六代目館主により再建され廃業の危機を乗り越え城崎温泉の情緒ある柳並木の街並みも、「北但大震災」後、先人達により現在の姿へと復興を遂げている。

現代、そして未来へ

昭和39年には、当時川口屋の道を隔てた 南側(弁財天社付近)に全室広縁バストイレ付の木造2階建て旅館弁天荘をオープンし、垣谷嘉四郎(七代目 川口屋仁右衛門)と垣谷 仁(八代目 川口屋仁右衛門)と力を合わせて2軒の旅館を切り盛りし、弁天荘には隣接した鉄筋4階建て離れを増築するなど精力的に営業致しました。
川口屋料理旅館創業者である垣谷万蔵(六代目 川口屋仁右衛門)より垣谷嘉四郎(七代目 川口屋仁右衛門)と、垣谷 仁(八代目 川口屋仁右衛門)が、新しい時代を重ねてついに現在の場所へ政府登録規格の旅館創業の夢が現実となった。
昭和49年3月、川口屋料理宿の趣と居心地を実現致し、お客様皆々様に愛される宿屋を継いだ政府登録国際観光旅館1500号『川口屋城崎リバーサイドホテル』が誕生致しました。大谿川河畔に位置する立地は、当時川下の土壌に安心安全を考慮し、地盤に100本以上の鉄杭を打ち、火災の場合にもベランダに避難可能という構造とレイアウトで安全面を重視した鉄骨コンクリート建ての佇まいに、安心と寛ぎの間取り客室と大宴会場を設けた団体収容力を備えた中規模旅館でございます。
平成27年4月29日には、大女将 垣谷文子が、昭和39年より旅館業に従事したことで黄綬表彰を受賞させていただき、今も尚お客様のお見送りを仕事として日々奮闘しております。そして現在は九代目館主も、現代の観光旅行・温泉宿・ホスピタリティ溢れるサービスのあり方を追求し、アフターコロナに備え旅館ホテルの生き残りをかけて日々奮闘致しております。
歩み続ける城崎温泉と共に、湧き続ける温泉の様に、旅行という幸せな時を皆様へご提供させていただく為に、改修改装を重ねて、郷土ホテルとして様々な用途を探求しつつサービスに磨きを掛けて参っております。